ふぐ食文化について
フグ食は2300年前の中国の「山海経」(中国古代の地理書/戦国時代から秦王朝、漢王朝にかけて加筆ののちに成立)に「ふぐを食べると死ぬ」という記述があったことから中国でも古くから食されていたことがわかります。一方、日本でも縄文時代から食されていたことが確認されており、日本の里浜貝塚(宮城県東松島市/紀元前6000年〜紀元後300年)からフグの骨が発見されております。縄文時代(紀元前1・4万年〜紀元前1000年)にはふぐを食していたことが想定されます。
豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、福岡から出兵する兵士が沿岸で取れるふぐを食して食中毒死する事案が続出、豊臣秀吉はフグ食禁止令を出した。徳川幕府の政権下でも武家では「主家に捧げなければならない命を、己の食い意地で落とした輩」として、当主がフグ毒で死んだ場合には家名断絶等の厳しい処分が下されました。
明治政府も1882年(明治15年)に河豚を食べた者を拘置・科料に処する法令を発出、引き続き厳しい規制を課していたのですが、伊藤博文が下関市の春帆楼でフグを食し、その美味しさから山口県の原保太郎知事に命じ、1898年(明治21年)に山口県に限り河豚食を解禁させました。これに続いて兵庫県(1918年[大正7年])、大阪府(1941年[昭和16年])がフグ食の禁止令を解くことになり、全国で解禁されました。
いまではフグ食文化は全国に広がりましたが、そのきっかけを作った下関市では下関唐戸魚市場に様々なフグが集まり、そこで除毒されたのち、全国の料理店に出荷されます。フグ食文化は今では全国レベルでの広がりを見せており、世界でも「フグ」は「FUGU」だけで通じるほどに知られるほどになりました。
フグの刺身である「テッサ」は非常に薄く刺身を引いていくために下の皿の絵柄が透けて見えるのですが、これが「テッサ」の皿と刺身とのコラボレーションによる芸術的な刺身料理となります。定番の「鶴盛り」「菊盛り」「孔雀盛り」「牡丹盛り」以外にもフグ調理人が高い技術力を誇った様々な「テッサ」料理が存在します。明治以降、一気に花開いたフグの食文化ですが、厳しい免許制度と料理人の高い技術が一体となって日本が世界に誇る芸術品としてこれからも後世に継承されていくことになるでしょう。