新聞記者は「想像力」を常に維持しながら記事を書かなければならない。先週のコラムで書いた記事の内容で痛烈に感じたことである。先週のコラムでは長らく続いた巣篭もり需要から1日だけ開放され、外食したことを書いた。それ自体は大きな問題ではなかったのだが、記事中で言葉が足りなさすぎた。
その席上ではスッポン鍋とテッサを一人前ずつオーダーして食べたのだが、私が作るスッポン料理やテッサとは違い、さすがプロだなぁと思うところが随所にあった。そのことをそのままに「素人料理」とプロの違いを感じたことを書いたのだが、肝心の「スッポン鍋」や「テッサ」のことには触れずに、ただ「素人料理」と「プロ」という言葉を出してしまい、ある人を大いに傷つけてしまった。
私の妻である。「ステイホーム」期間中、いろんな料理を作ってくれた妻は自分の料理が「素人料理」と言われ、「美味しくないと言われた」と感じさせてしまった。もちろんそんなことはないし、妻への感謝は言葉では言い表せない。妻の気持ちを想像できずに配慮を欠いた記事を書いたことは痛恨の極みでもある。
しかも、妻は日々の生活のストレスだけでなく、「コロナ」による「ステイホーム週間」で目に見えないストレスを溜めていた。可能であれば外でご飯を食べたいと思い、我慢していたことを想像できなかった。いつも、記事を書く時には実際に取材したことに基づいて事実を書いていく。しかし、その事実の背景にある様々な目に見えない多くの人の気持ちを想像しないままに記事を書いてはいけない。「事実だからいいじゃないか」と無配慮に書いた記事が多くの人を傷つけてしまうことは多いのではないか。
私もそこは常日頃よく感じながら記事を書いているつもりだが、決して完全ではない。もし、「傷つけてしまった」と思ったら「事実なんだから」と開き直らず、傷つけた人の心を癒す配慮は必要だ。実際、私も記事の内容で謝罪することは多い。家族に詫びたのは初めてだが、誰であろうと自分の記事で人の心が傷ついたら、即座に謝罪している。
新聞記者の仕事は事実を伝えることだけではないということ、今回のコラムのことでも改めて痛感した。記事の向こう側にいる多くの人の気持ちを想像する姿勢を決して忘れてはならない。
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